2003年12月(day008)

2003年12月(day008)


2003年12月1日
-5S活動の巻<1>-(5S活動記録の部分のみ別途マークをつけました)
 現在、工場では5S活動に力を入れ始めている。何を今さら、とお考えになる方も多いと思う。うちの工場でも、名目上の活動は長らくあったのだが、効果が上がっていなかった。そこをもう少し厳しくやろうと言う訳である。

 かくいう私は、5S活動とは縁遠い人間。目の前のパソコン、キーボードの周りさえ、エアコンのリモコン、オロナイン、ビタミン剤、名刺、カレンダー、宝くじのハズレ、1元硬貨、パソコンのパンフレットと10数種類以上の小物が散乱している有様だ。私の部屋で5Sをやれと言われたら、給料を倍にしてくれたとしてもお断りする。というか、引き受けても一ヶ月間続けるのも難しいことだろう。

 しかし、これは仕事上の要求である。嫌だどうのとゴネルわけにもいかない。それでは「5S」とは何なのだろうと調べてみると、整理・整頓・清掃・清潔・躾(しつけ)の5項目の頭文字から出来たネーミングだそうだ。躾(しつけ)のところはよくわからないが、一言でいえば、「しっかり掃除して綺麗にしろってことか」と最初は考えた。

 それなら、話は簡単だ。気分転換を兼ねて自分の机や周りを掃除し始める。部下の中国人スタッフにも机に物を置いたままにするな、整理・整頓をしろ!とうるさく声をかけた。なんと言っても、一番机を汚くしていた私が率先して掃除をするのだ。みんなも自分の机を綺麗にするのに異存があろうはずもない。ここまではとんとん拍子で話が進んだ。念には念を入れて毎朝朝礼をやることにし、5Sの要点を全員で復唱することにもした。さらにスタッフの一人を選んで、5S委員とし「5S」の中心となって働いてもらうことにした。フフッ、意外と簡単じゃないか「5S」活動というのは。

 だが、現実はそれほど甘くなかった。

2003年12月2日
-5S活動の巻<2>-
 元来、私は集団活動が苦手だ。会社の行事にもほとんど参加しないし、部下を連れて食事に行くことも稀だ。もちろん、部員を集めて遊びに行くこともない。だから自然と電脳部スタッフも協調性の薄い集団となる。この弱点はかなり以前から意識していた。協調性やグループとしての目標達成能力、しいては統率力は皆が一緒に活動することによって生まれるものであり、日常の仕事だけからではなかなか養うことができないのだ。そういう意味で、「5S」は私の弱点を補うのにピッタリの活動であったといえる。また、その利点を意識していたからこそ、自ら率先して苦手な整理・整頓・清掃(これだけだったら3Sか)に力を入れたわけである。

 整理・整頓・清掃の見本をみせ、スタッフにもやらせる。ファースト・ステップはこれでOKであった。間違いがあれば指摘をし、すぐに修正する。非常にわかりやすい。
ところが、協調性を養うというセカンド・ステップに移ろうとしたとき、大きな壁にぶちあたった。 
2003年12月3日
-5S活動の巻<3>-
 どうも動きが悪いな、そう感じたのは5S活動を始めてしばらく経ってからであった。もともと中国人はプライドが高く、「言われてすぐ動く」ということをあまりしない。怒鳴られでもしない限り、意味無く実行を引き延ばすことが多い。命令されてすぐに動くのは面子にかかわるらしいのだ。
 そうは言っても、上司の要求があればしぶしぶながらでも指示された作業にとりかかるのが普通だ。ところが、ここ一週間ほど5S委員E君の動きが悪いのだ。言われた作業を全くやろうとしない。と言って、何もやらないわけではなく、通常の業務はきちんとこなしているのだ。ただ、「5S」活動に関する作業を一切やろうとしないのである。作業と言っても、負担になるほど大きなものではない。戸棚の中身をWORDで書き、印刷をして戸棚の表に張るだけのことである。

 戸棚の中身の整理・整頓は私も加わってすでに終わらせてあった。中身も書き出させてあったのに、そこから先の作業がピタリと止まってしまったのである。一週間経っても全く進まない作業に業を煮やした私は、とうとう「E君は今日は5Sの仕事を真っ先にやりなさい。それが終わるまでは他の仕事はやらなくてよろしい」と指示を下した。
2003年12月4日
-5S活動の巻<4>-
 「E君は今日は5Sの仕事を真っ先にやりなさい。それが終わるまでは他の仕事はやらなくてよろしい。他に仕事が発生したら、まず私のところにもってきなさい」。そこまで言われては、もはや逃げ道はない。緩慢とながらE君も動き出し、とうとう戸棚にラベルが貼られることになった。しかし、いかにも嫌々ながらという様子で、「張るのはここでいいんでしょ!」と口を尖らせながらの作業であった。
 
 これでは駄目だ。5Sの一つ一つの作業を私が直接プレッシャーをかけなければ達成できないようでは、これから先とてもやっていけない。危機感を感じた私はE君をサーバー室に呼び出して話を聞いてみることにした。
2003年12月5日
-5S活動の巻<5>-
 E君に椅子を勧めた後、自分ももう一つの椅子に座ると「どうしたんだ、最近おかしいじゃないか。何か問題でもあるのか?」と私はまっすぐに話を切り出した。すると、「大ありですよ」とE君は唇の右端を少し歪ませながら息巻いた。「どこか不公平なところでもあるのか?」と私が重ねて質問をすると、「貴方は不公平がないとでもいうのか」とE君は怒りを顔に表して叫んだ。
 
 電脳部の仕事は多岐に渡っており、日常のPCメンテナンス以外に出退勤システム、出荷システム、購買システムの管理、メールシステム管理、ネットワーク管理、ウィルス対策などがある。その上、電話システム管理、携帯電話管理、コピー・印刷機管理等の本来はコンピュータ部と関係のない仕事も引き受けているので、日常の作業はかなり煩雑なものとなっている。これらを私が、日々、スタッフに振り分けているわけだ。そこで、問題となるのは、作業の多様性が進むにつれスタッフ同士がお互いの仕事量が見えなくなってくることだ。そうなると、皆が自分の仕事量が多いと不満を訴え始める。
 こうした不満を解消するために、私は各スタッフに与えた仕事をホワイトボードに書き出して公開することにした。今までも秘密にしていたわけではないが、ホワイトボードにスタッフ6人の名前を書き出し、名前の下に各々に与えた作業を書き連ねることによって、誰がどんな仕事をどれくらいやっているかをスタッフ同士が把握できるようにしたのだ。これが数週間前のことである。
 
 それ以来、公平・不公平の話は出なくなり、「作戦成功」と心の中でニヤリとしていた私だったのである。しかし、今、目の前のE君が再び「不公平」を訴えている。一体どうしたことであろうか。・・・というか、もうカンベンしてくれよ(笑)
2003年12月7日
 土曜日から日曜日(本日)にかけて、パソコンと大格闘をしていた。以前から問題となっていたハードディスクの異常音が耐えられないほど大きくなり始たからだ。数ヶ月前キーン、キーンと高音がなり始め、さてどうしたものかと考えているうちにいつの間にか消えてしまった。ところが一週間ほど前から再び今度は低音でウィーン、ウィーンとなり始めたのだ。あまりに音が大きいので、パソコンにスイッチを入れるのもためらわれるほどになった。

 こうなったらハードディスクの交換だ。そう決意してハードディスクを購入にいったのが昨日のことである。Maxtorの40Gを455RMBで購入。(深セン市内までいけばもっと安かっただろうが、面倒なので近所のパソコンセンターですませた)。
 CD-ROMドライブの交換やCD-RWドライブ、DVDドライブの追加はやったことがあるけれどもHDDの交換を自分だけでやるのは初めてだったので、ちょっとドキドキした。作業は意外なほどに順調に進み、OSのインストールまで一気に進んだ。ところが、異常音は相変わらずなくならない。もしや音の源はハードディスクではなかったのか?
 ためしにクーラーファンを取り除いてみる。ちょっとマシになったような気もするが、ほとんど変わりない。その上、しばらくするとマウスが動かなくなった。再起動しても数分するとやはりマウスがストップする。CPUが熱くなり過ぎたためだろう。
 そうなると、動く物体で残っているのは電源ファンのみ。電源ファンは電源と一体型だから電源ごと交換するしかない。というわけで、本日は電源とCPUファンの購入に出かけた。電源は125RMB、CPUファンは20RMBで買うことができた。電源、CPUの交換もともに初めてであったが、作業は順調に進んだ。
作業は順調であったが、結果はまったく変化なし。一体音はどこから来ているのだ!!もう一度パソコン本体に耳を当てて聞いてみる。ウーム。やはりハードディスクが怪しい。だが、これ以上どうしろというのだ。もはや、パソコンごと交換するしかないのか。去年はこんな音はしなかったのになぁ。 
2003年12月8日
 昨日の晩、ハードディスクの怪音から離れてひと休憩した後、再びパソコンに向かった。(要は音を気にしなければいいんだ)。そう考えて、ネットサーフィンを始めようとしたところで異常に気づいた。ネットにアクセスできない!!
 どうしたことだ。慌ててLANケーブルと電話線の接続をチェックする。そして、再びIEを起動・・・・、駄目だ。それならと、ADSLモデムとルータのスイッチをオフにし、再びスイッチを入れる。そして、IEの起動にトラーイ。駄目。

 となると、電話回線がいかれているのかもしれない。試しに電話機単独でテストをしてみる。おー、全く音がしない。そうか、電話回線がいかれているのか・・・。こうなると、もはやお手上げだ。明日にでも電話局に連絡するしかないな。しかし、インターネットができないと寂しいものだ。

 早朝、6:30.目覚ましとともに飛び起き、さっそく電話チェック。プーーと音が聞こえてきた。やったー。夜を通して修理に励んでくれたのか、ありがとう電話局さん。すばやく電話線を繋ぎなおして、今度はインターネットにアクセス。・・・・・駄目だ。繋がらない。モデムがいかれたのだろうか。うーん。出社の時間が近づいている。あとは帰宅してからだ。

 そして、帰宅後。まずは、ADSLモデムの購入に行く。昨日、電源ファンを購入したお店で軽く値切って、280RMB。前回は少し高めのものを買ったのだが、今回は一番安いのにした。どっちにしろすぐ壊れるなら安い方がいい。

 アパートに戻って、ADSLモデムを交換。さあ、どうかな。ネットアクセス、ゴー!・・・・。駄目。どういうことだ。モデムの故障ではなかったのか。それでは、ルータ?ルータに登録してあったパスワードが消えてしまったのだろうか。ルータ、ルータ、うーん、ルータのIPアドレスがわからない。メーカーのHPにアクセスすればわかるのだが、そもそもインターネットができない。Windowsのコマンドで調べることができたような気もする。しかし、コマンド本は会社。この案はボツ。

 ならば、モデムと直接つないでみよう。幸いユーザ名とパスワードは記録してある。ルータを使っていなかったことに使っていたPPPOEのダイアルアップソフトを探し出してユーザ名とパスワードを入力。チェーック。駄目。ああ、どうしたらいいんだろう。今日もインターネットができないのか。先日Yahooのニューストピックでみた「ネット依存症強まる」の記事が頭の中をよぎった。私も相当いかれているな。

 もしや電話線がやられているのではと交換したけれども、これも効果なし。今度はネットワークカードの交換。これも駄目。うーん、とにかくインターネットにアクセスしなければ情報もゲットできない。いろいろ試行錯誤しているうちに、先ほどまでモデムのところでエラーになっていたのが、応答エラーに変わった。試しにモデムまでPingを飛ばしてみると、これは通る。だか、ネットにはアクセスできない。

 こうなったら、古いパソコンからモデムカードを引っこ抜いてきて、普通のモデムでインターネットにアクセスするほかない。大変だなー。大変すぎる。だいたい、普通のモデムでアクセスできても、その後の手が難しい。

 ・・・・、そう言えば、以前、ユーザー名が電話局で勝手に変更されていたことがあったなぁとの記憶が突然よみがえった。もともと、○○○というユーザー名が、ある日突然に連絡もなく、○○○@XXX.XXというのに変更されていた。それを知らない私は散々頭を悩ませた後、とうとう電話局サポート係に電話をかけて真実に辿りついたのだ。
 ユーザ名へプラスアルファが突然になされるのならば、再び減らされることもあるのではないか?そう考えた私は、○○○@XXX.XXの@以下を削りとり、PPPOEダイアルアップをしてみた。すると、エラーの内容が変わり、パスワード認証に失敗となったではないか。ということは、私のアクセスは電話局まで届いているのだ。それならばと再び、ユーザ名をもとに戻して、トラーイ。・・・・・・・・接続成功!!バンザーイ、バンザーイ。だが、まだ油断はならない。ルーターを間に入れて、再テスト。問題なし。ふー、長い一日だったぜ。

 結局、原因がわからないまま解決に至ってしまった。ユーザ名の変更でどこかにリセットがかかったのだろうか。それとも電話局側が異常に気づいて対処してくれたのだろうか。謎は深まるばかりだ。まっ、結果オーライですな。
2003年12月11日
-5S活動の巻<6>-
 しばらくパソコン問題にかかりきりだったので、「5S活動」の話はお休みが続いた。パソコンというのはグレードアップすればするほど、再インストールがやっかいになってきている気がする。

 さて、12月5日の日記の続きといこう。サーバー室で、私に対して「不公平」を訴え始めたE君。その主張は一体どんなものだったのだろうか。

 「貴方は不公平がないとでもいうのか」。そう叫んだE君に対して、私は「だって、仕事もホワイトボード上で振り分けるようにしたし、完全とはいわないまでも相当公平になったと思うぞ」と当然の疑問をぶつけた。
 「それは表面的なことだ。実際には全く公平じゃない!」とE君はますます興奮し、真っ赤な顔で私をにらみつけた。「どうしてだ。同じ作業量になるようにやっているつもりだがな。もちろん・・・」と私が答えかけると、E君は「私は5S活動をやらなきゃならない!」と私の言葉を遮った。

 (うーん・・・)。私はおおいに困惑した。5S委員をやってもらうときには、会社における5S活動の重要性をよく説明し、納得づくで決めたはずだったからだ。(ただし、私が説明した重要性は5S自身の重要性ではない。今年度の重点目標となっている5S活動に積極的に関わることでE君が高い評価を受けることができるというメリットを説いたのだ)。

 しかし、そんなことはお互いにわかり切っている。同じ事を再び持ち出しても仕方がない。そこで、「E君に5S活動をやってもらっているのと同じように、D君にはメールの管理をやってもらっているし、G君にはコピー機の管理をやってもらっているよ、他のスタッフにもいろいろ担当してもらっているじゃないか」と状況を説明した。しかし、「5Sは大変なんだよ」とE君は再び不満をぶつけてきた。「どうしてだ?だいたい、まだ活動らしい活動をしていないじゃないか。棚の整理だって俺も一緒にやったんだし」と私は少し怒って言った。

 すると、「貴方は中国人を全然理解していない!」。E君は一層怒りを込めて私を睨む。(ウーム、俺は本当に上司と認められているのだろうか?)と不安が心をよぎった。だか、ここで怯んではいられない。
 どういうことだ!という顔をしてこちらも睨み返す。

 さあ、サーバー室での打ち合わせは一体どういう結末を迎えるのであろうか。そして、私に心の平和が訪れる日はいつ・・・(涙)

2003年12月16日
-5S活動の巻<7>-
 ここ数日、冷え込みがかなりきつくなってきた。さすがにもう半袖ではいられない。先日出張で出かけた杭州はもっと寒くて頭が痛くなりそうであった。日本の寒さは更に上をいくのだろうな。皆さん、いかがお過ごしですか?

 それでは、「5S活動」記の続きに入るとしよう。
 私が中国入りをしてすでに8年にはなる。ここ4年間は日本にも一度も戻っていない。中国滞在の日本人としては恐らく第二世代ということになるだろう。第一世代の方々のように、中国にまだ本当に何もない頃にやってきたわけではないから、ずいぶん楽をさせてもらっている。しかし、中国最貧省の貴州へ留学し、続けて日本語教師もやり、さらに中国人社長のもとで仕事をしたという日々から様々な事を学んできた。日系工場で建設から総務運営にまで携わったこともある。まさか、今日になって「貴方は中国人を全然理解していない!」と言われるとは。面目丸つぶれではないか。恥ずかしくて人に言えたものではない。ぐっと奥歯をかみ締める。ゆっ、許せーん。

 「中国人には面子が大事なんだよ。俺は5S委員をやってることで、W(電脳部の女性スタッフ)に笑われているんだぞ」。(わかるか?この辛さが)という顔をしてこちらに目をやるE君。
 「笑われる」。この言葉が私の頭に染み込んでくるまでに数秒を要した。今は仕事の話をしているのだ。なぜ、「笑われる」ということが問題になるのだろう?頭の中で何かがクルクルと回転する。笑われる、面子?おーっ、5S委員をやると面子がなくなるのかー。

 困ったことになった。「5S委員をやると笑われる」では、説得どころの話ではない。問題が目前のE君だけに留まらず、電脳部全体、もしかしたら会社の全スタッフに及ぶということになる。とは言え、ここで「じゃあ、仕方ないね。5S委員はやめていいよ」で終わらせては仕事にならない。さあ、どうするか?
2003年12月18日
 アクセスログから、なんと今日一日で、日本から60アクセスを超えたことがわかった。大成果だ。ただ、その3分の1が中国の「宝くじ売り場」の写真へのアクセスである。これは間違ってアクセスしてしまったという、いわゆる「迷いアクセス」なのだろう。そして、残った部分のさらに3分の1がフェリーと列車の時刻表へのアクセス。私のコンテンツとは直接の関係はあまりないが、それでもうれしい。そこで、時刻表の時刻をチェックしてみる。すると、大部分の時刻表に変更が加わっており、私のHP上の時刻と合致しないことが判明した。これはまずい。慌てて修正をし、お詫びのメッセージを入れる。さらに、同じ間違いを犯さないように、HPの更新自動チェックプログラム(フリーウェア)を導入。これで、時刻表の変更をただちに反映できる。なんで、今まで思いつかなかったのかと今さらながら不思議に思う。

 とにかく、改めてネットサーファーの皆様にお礼を申し上げます。
2003年12月25日
 今日はクリスマス。中国では24日のイブではなく、25日がメイン。

 「江西省の旅」の三清山編が終わりにさしかかっている。実際に旅行に出たのは8月の半ばだから、もう4ヶ月も前の話だ。記憶もおぼろげになってきたので、山をおりたところで打ち切りにしようかと考えていたが、書き進むうちに次から次へと記憶が蘇ってきてなかなか最後までたどり着けない。年内にはなんとかしたいなぁ。
2003年12月28日
 昨日は深センウォッチングに行って来た。深セン駅までいつもの中型バス(25RMB)で行った後、徒歩でジャスコに向かったのだ。深センは身近な大都市であるにもかかわらず、あまり詳しくない。東門、書城、華強、ジャスコ等のポイントをタクシーやバスで行き来しているぐらいで、街歩きをほとんどしていないからだ。だから、タクシーの運転手に遠回りされても全くわからないことだろう。
 
 まずは、駅前の「人民南路」をゆっくりと下って行く。すると、「国貿大廈」に出くわした。「国貿大廈」との最初の出会いは、もう5、6年ほど前になる。仕事を探しに初めて深センに来て、深セン大学で過ごした2週間ほどの間、時間を持て余してウロウロしているときに円形の、当時の中国では珍しい近代的な建物に、誘われるようにして迷い込んだのだ。そして、テナントとなっていた薬局で販売されていた「アンメルツ ヨコヨコ」を見つけ、大感激。(当時は貴州省でしか暮らしたことがなく、香港にも行ったことがなかった。だから、日本の薬を手に入れるなど夢のまた夢だったのだ)。
 それ以来、「国貿大廈」は私にとって、アンメルツの「国貿大廈」となったのだ。確か、3、4年前にも一度ここへ来て、「アンメルツ ヨコヨコ」を仕入れていった記憶がある。
 香港にも頻繁に行くようになった今となっては、ここで薬を買う必要もなかったが、せっかく来たのだからと薬局を探してみたがみつからない。宝石店ばかりが妙に目立つ。時代の流れとともになくなってしまったのかもしれない。

 「国貿大廈」の喫茶店でコーヒーを飲みながら次の行き先を見定めた後、建物を出る。初めて来たときは、時代の最先端を走っているような印象があった建物も、周囲に建設された最新の高層ビルの前では相当色あせている。近々取り壊されることになっても不思議はないという感じだ。中国の変化はとどまることを知らない。

 「人民南路」を下りつづけると、「深南東路」にぶつかる。地図によると、ここを西に向かっていくと「ジャスコ」及び深センのパソコン街「華強」に行くことができる。他に面白そうなものはないかとさらに地図に目を走らせると、あった。「深南東路」を横切って走っている「建設路」を北に行った一角に「老街」と書かれているではないか。距離も近い。足を伸ばしてみるとしよう。

  「建設路」に足を踏み入れると、なにやら見慣れた風景が現れた。「東門」そっくりだ。いや、「東門」そのものだ。つまり、「老街」とは「東門」の別名だったのである。そう言えば、以前にタクシーの運転手が「老街」とか言っていたような気が・・・。しかし、「東門」がこの位置にあるとは知らなかった。方向オンチの私は「東門」が深セン駅の南側にあると思い込んでいたのだ。

 「東門」は広東省随一とも言われるショッピングセンターである。ただ、メインがアパレルなので私とはあまり関係がない。昨年末から今年の始めにかけて、日本語書籍フェアがやっており、それで足を運ぶ回数が増えたものの、フェアが終わってからはとんとご無沙汰にしていた。
 
  でもせっかく来たのだからと少し寄っていくことにした。「東門」に来たことがあると言っても本屋に行くばかりで街をじっくり歩いたことがなかったからだ。友人Qによると、「東門」は小汚い市場のようなところだったらしい。どの程度小汚かったのかはわからない。何しろ今は街全体が新しい建物群に入れ替わっていて古い街並みなど一切残っていないからだ。四方に数キロは広がっているであろう巨大ショッピングセンター街。とても、一日では回りきれないであろう。そこで今回は、以前から興味のあった、通りの入り口近くにある古代風の演出をしてある建物の中に入ってみた。すると激しい電子音が耳に飛び込んできた。ゲーム機器の音である。プレーステーション2やXBOXのソフト・ハードが勢ぞろい。どこまで行っても、ゲーム機のソフト、ソフト、ソフトである。深センの秋葉原である「華強路」でもゲームソフトを売るところはあるが、あっちはパソコンゲームが主。こちらはゲーム機のソフトが大勢を占めている。「ゲーム城」と名づけたくなるほど、テナントが多い。これは良い場所をみつけた。今度からゲーム機関連商品はここで購入することにしよう。

 「ゲーム城」出て、また一つ別の建物に入ってみる。これは残念ながら、アパレル関係のお店ばかり。数十軒はあると思われるテナントが商品で店内をいっぱいにしてしのぎを削っている。アパレルというのは中国でもっとも活力のある産業の一つで、少し大きめの街であれば「アパレル城」とでも呼ばれるのがふさわしい一角が必ずある。「東門」の「アパレル城」はその中でも群を抜く大きさ、量であった。センスのことは私にはよくわからないが、カラーの豊富さからみても南方ではトップクラスなのではなかろうか。アパレルでは東莞の「虎門」が有名だが、数年前に訪れた記憶と比較すると「東門」のほうが密集度、規模とも数段上のような気がする。もっとも、「虎門」もここ数年でさらに発展していることだろうから、どちらが上なのかはわからない。

 ゲーム機とアパレルで両目を満腹させたところで、お腹が不満の声をもらしているのに気がついた。今度は食べ物を求めて街をさまよう。「東門」の食事どころは豊富だ。マクドナルド、ケンタッキー、ピザハット、大家楽等の大手チェーン店が軒並み顔を揃えているだけでなく、日本式のラーメン店も多い。独立系の西洋レストランも相当数入り込んでいて競争も激しそうだから、安くて美味しいものがたくさん食べられるのではなかろうか。

 私はまず屋台の「ゲソ揚げ」でお腹を黙らせる。一本3RMBとかなりの高価格だ。中国一の物価高ではないか?との疑問が頭をよぎる。他に何か美味しそうなものはないだろうかと目をキョロキョロさせていると、あった!「シンガポール式スナック」と看板を掲げたお店で手作りハンバーグのようなものを出している。豚肉、鶏肉、牛肉と、三種類の肉のどれかを選んで玉葱と混ぜ、鉄板の上で炒めてもらうのだ。それにドレッシングを加えて、同じく鉄板の上で温めたパンに乗せて挟んで食べる。2個で5RMBと格安だ。「1個でいくらだ?」と尋ねると3RMBとのこと。一つ注文すると、さっそく肉を持ってきて炒め始めた。肉に火が通ると玉葱を混ぜてさらに炒める。最後にドレッシングをかけて、パンに乗せて出来上がり。店員が現代風のパリパリとしたビニールに包んでこちらに渡してくれた。人ごみをさけて通りの端の方でパクつく。うまい。シンガポール式とあったが本当かな。

 お腹が満ちたところで、「ジャスコ」にむけて出発。「東門」までは周囲が賑やかなこともあってあっという間についたが、「東門」から「ジャスコ」は遠かった。オフィス街が続いているため、何しろつまらない。まぁ、たまには運動もいいだろうと諦めてテクテク。2時半到着。もうすぐお正月なのでスーパーでお餅のパックを購入。10切れ入って76RMB。輸入品は高い。貴州では、混じりけなしのお餅が同じ量で2,3RMBで買えたのに。

 スーパーを出て何気なく近くにあったカウンターをみると、なんと日本の雑誌が!尋ねてみると、今月から日本の書籍を販売開始したのだそうだ。電話での予約もOKとのこと。素晴らしい。さっそく、2,3冊の雑誌を購入した。今日は来たかいがあったと感動に浸る。

 ジャスコを出て、タクシーに乗ろうとしたところで、会社の同僚Hさんとバッタリ。一緒にタクシーで帰ることになった。日本人社会とは狭いものだ。