8:05、二日ツアーなので、一旦ホテルをチェックアウトした。チェックアウトの手続きをしながら、外を見ると、ホテルの裏(バス・ステーションの停車場)に「沙塔尓」の姿が見えた。運転手たちらしき男たちと楽しそうに話をしている。なるほど、彼が客を集めて、運転手たち配分をしているわけか。確かに彼の愛想の良さは人に安心感を与えるし、自分でつれて歩ける以上の客が集まりそうだ。そうなると、客集めに徹したほうが効率がよくなるというわけだ。
チェックアウトを終えた頃、「沙塔尓」がドアを抜けてフロントに入ってきた。まだ、早いから食事に行って来いという。出発の時間は大丈夫かと問うと、「OK、OK、行ってこい」とのこと。話がいまひとつかみ合っていないが、まぁ、いい。「左の方に行って、十字路を右に曲がると、そこで何でも食べられる店があるから」と指定が細かい。知り合いの店なんだろう。しかし、言われた道順で進んだものの、どこにも店がない。諦めてホテルへと戻る途中で、人が次々に吸い込まれていく店を見つけた。入ってみると、中華ファーストフードのお店。好みの店じゃないが、Zの顔をみると、何か文句があるの?という表情だ。これは、反対できる状況ではない。時間もないことだし、ここで食べることにした。
お粥やら肉まんやら炒め物やらと注文して、二人分で6.5RMB。安い。これだよ、これが中国だよ。沿岸地方では、こんなに安い朝食はなかなか食べられなくなってきているものなぁ。味はたいしたことはないが、腹いっぱい食べて満足。
8:35、ホテル着。「沙塔尓」の弟を紹介された。今日のツアーは彼が運転手だという。顔はよく似ているが、弟は寡黙で真面目な印象だ。もっとも流れる川のようにしゃべり続ける「沙塔尓」と比べたら、誰でも大人しく寡黙に見えてしまうかもしれない。車のトランクを開けて、荷物を入れろというので、中をみてみるとガスのタンクが設置されていた。LPガス式の乗用車だ。タクシーではみたことがあるが乗用車では初めてだ。大丈夫なのかな~と心に不安がよぎった。(車に疎い私は、日本のタクシーの90%以上がLPガス自動車であることを帰宅後インターネットで調べて初めて知った)。ガタゴト道で爆発したりしないだろうな。
私がそんな心配をして車を眺めていると、「沙塔尓」の弟は勘違いをしたらしく、「昨日、夜遅く戻ってきてね。XXから一日これを走らせて戻ってきたんだ。それで車を洗う間がなくて・・・」と慌てて説明をした。「気にしていないよ」と伝えたが、ひどく恐縮して言い訳を繰り返していた。汚れた車に客を乗せるというのは、こちらの地方の人の間ではすごく失礼に当たる行為なのかもしれない。(彼は出発した後も、車が汚れていることを盛んに言い訳し、謝っていた)。
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【 ツアーの乗用車 】 |
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【 トルファンの街中 】 |
8:40、帽子を被り、眼鏡をかけた30代後半と思われるふくよかな体型の女性が私たちが泊まったのと同じ「交通賓館」から出てきた。「ごめんなさーい」といいながら、身体全体をゆさゆさと揺すりながら、駆けてくるようすがユーモラスな感じを与える。「沙塔尓」が今日の一日ツアーは私たち(私とZと女性)3人が一組だと説明した。それと「沙塔尓」の弟の合計4人での出発となった。「沙塔尓」は今日も客引きをして1日を過ごすのだろう。
皆が車に乗車して出発すると、女性が話し出した。
「私ね、本当は一日ツアーに参加することになっていたんだけど、今朝フロントに下りてきたら、『沙塔尓』が二日ツアーが空いているから、二日ツアーにしなさいと強くするめるものだから、そうしたの」
「昨日、最初駅で、列車を降りたとき、『沙塔尓』が来ていてね。ホテルまで連れて行くというから、名刺も見せてくれたし、感じは悪くなかったから一緒にいくことにしたんだけど、ちょうどやってきた他の客が数人がいて、彼女たちを誘いだして、全然出発しないのよ。それで、『沙塔尓』のことは放っておいて、自分でここまで来たの。それで、あのホテルに泊まったんだけど、部屋に荷物をおいて外にでたら、また『沙塔尓』に出くわしたの。それで、自分はインターネットでブログでも紹介されているっていうものだから、帰ってきてから半信半疑ながらもインターネットで調べたのよ。そうしたら、本当にブログに紹介されていて、評価も悪くないようだったから、彼の紹介するツアーに参加することに決めたの」
彼女はとうとうと話し続けた。話し方が上品で、世間ずれしていない様子だ。
服装や物腰からしても、贅沢ではないけれども、比較的裕福な暮らしをしていることが伺える。以前、こんな話し方をする人たちがいた。貴州大学にいた頃だ。すると、この人もきっと大学の先生に違いない。さもなくば、私立学校の先生か・・・。
9:00、「交河故城」に到着。入場料は40/RMB。
車が停車すると、女性は「ここ、すごく楽しみにしていたの。時間どのくらいかかるかしら」と尋ねた。「沙塔尓」の弟がまだ答えないうちに、女性は「1時間ぐらいどうかしら。10時に戻ってくるってことでいい?」と言った。少し長すぎるかなとも思ったが、急ぐ必要もないので同意した。
「沙塔尓」の弟は私たちが下車すると、洗車をしてくると言って去っていった。自分が戻ってくるまでに見学を終えたら、入場門の脇の店が知り合いだから、そこで待っていてくれとのことだった。
入場口を入ったところにある売店で私たちがもたもたしていたら、女性(以下Dさん)は待ちきれなくなったらしく、「私先に行っているわね」とさっさと歩き出した。
数分遅れて私たちも出発。「交河故城」は紀元前2-5世紀に車師人によって建てられたものらしい。中国のインターネットで調べると、「世界中で最も保存状態の良い、生の土で作られた都市」というようなことが書かれている。しかし、建物のほとんどは唐の時代に再建されたものらしい。その辺、どこを基準に世界一と言っているのか疑問を感じる。
もっともそんな歴史も帰宅後調べたのであって、旅行中の私たち二人にとっては、「ああ、古いねぇ」ぐらいの感想ぐらいしか浮かばない。だいたい、まともに建物の形をしたものがないのだ。何も考えずにみれば、土の塊がぼこぼこと置いてあるようにしかみえない。しかし、ここで大勢の古代人が暮らしていたんだなと思いを馳せれば、違った味わいもある。
保存状態はあまりよくないが、一応あちらこちらに管理スタッフがいて、Zが石畳で作られた道をはみ出て遺跡の中へ入っていこうとしたら、注意された。もっとも、これは運が悪かったのであって、他の観光客など、何人もが遺跡に入り込んで写真をとっていた。
私たちは、40分ほどでぐるりと回ってしまい、入場門の外へ出た。
「沙塔尓」の弟はまだ戻ってきていなかったので、指示された通り脇の店に行くと、気のよさそうなおじさんが出てきて、座れ座れと合図してくれたので、外に出ているテーブルの席についた。それから20分経って出発からきっかり1時間後、Dさんが戻ってきた。時間はきちんと守るタイプのようだ。
やや遅れて、「沙塔尓」の弟が到着
した。私たちが乗車しても、「沙塔尓」の弟は車を走らせようとしない。誰かを待っているようだ。数分して、大きな瞳をした若い女性がやってきた。一緒に乗っていくのだそうだ。
10:10、出発。田舎での相乗りはよくあることなので、驚かない。まぁ、仕方がないなというところだ。田舎では相互の助け合いシステムのようなものなのだろう(深センとかだったら、危ないから断るところだが・・・)。女性は、私たちが日本人だと知ると、「私、日本語少し話せます」と話かけてきた。唇に真っ赤な口紅を塗って、服装も艶やかなので、一見したところ堅気の職業のようには見えない。ただ、ウィグル族のようなのでどういう服装が普通なのかわからず自分の推測が正しいのか自信が持てないところだ(後に聞いたところ、Zは学生だと思っていたようだ)。
十分ぐらい車を走らせたところで、トルファン坎儿井博物館に到着。ここで、「交河故城」から一緒にきた女性はどこかに消えていった。
「坎儿井」は「カレーズ」とも言われる。ペルシャ語で地下水という意味だそうだ。井戸と井戸を地下で結び、今も灌漑や飲用に利用しているのだ。トルファンにあるカレーズの全てを合わせるとなんと、数千キロメートルにも及ぶ長さになるとのこと。万里の長城にも匹敵する大工事だそうだ。しかし、この話しを聞いてから、博物館へ行くとがっかりするかもしれない。短いトンネルがいくつかあるなぁ程度のものだからだ。復路では、土産物屋の間を同じ距離の間抜けてこなければならないし。あの宇宙から見える(?)万里の長城と比較するには、ちょっと・・・と思ってしまうことだろう。もちろん、もっと迫力のあるカレーズもどこかにあるのだろうが、少なくともここの博物館ではない。(実際に生活に利用されているものは、見学が簡単ではないかもしれないから仕方ないのか)。
幸い、私たちがそれを知ったのは、帰宅後のこと。前提知識なしで見たので失望もしなかった。博物館の入口のロビーに展示物があり、そこからカレーズに入っていく。ところどころ切れ目のあるなか、地下道を通り抜けた。時折、古代の人たちを模倣した像が配置されており、雰囲気を高めている。Zが地下水を泳ぐ魚を目ざとく発見。「魚、魚がいるわ!」と教えてくれた。水があるところでは、どこでもすぐに魚を見つけるZはある意味すごい。もし、食料危機が起きたりしたら、Zと一緒に山に籠もれば生き残れるかもしれない。
特に目を引く物はなく、最後までいくと、階段を上がって地上へ。復路は土産物屋の間を抜けて戻るだけ。最後に生ブドウをミキサーでジュースして販売している場所があったので、一杯買って飲んだ。美味しい。なんと言ってもブドウの本場だからなぁ。
10:40、外へ出て、「沙塔尓」の弟の車の中で、Dさんが戻るのを待つ。Dさんは、出発の前に約束した通り、きっかり11:00に戻ってきた。Dさんは、「ずっと前から、カレーズを見たかったのよ」と興奮気味だ。「学校の教科書にのっていて、どんなものかと思っていたの。やっと見れて満足だわ」と嬉しそうに話している。そんなに有名なものなのか?と不思議に思った。
トルファン坎儿井博物館を出ると、車は一旦街へ戻り、私たちが泊まったホテルのある道に入った。バス・ステーションのところで停車すると、赤ん坊を抱いた女性が乗車してきた。またも、乗り合い客だ。今度はどこまで乗っていくのだろうか。
「蘇公塔」着。入場料は30RMB/人。
蘇公塔は額敏塔とも言われ、清朝の名将額敏和卓が清朝の恩寵に報い、忠誠を示すとともに、自らの業績を後世に残すために建設を始め、その死の翌年に息子の蘇来蔓が完成させたものだそうだ。インターネットで調べた範囲では、いかに彼ら父子が清朝と一体化していたかということがひたすら書かれているだけなので、あまり興味深い内容ではない。要はこの頃から、ここはウチの土地だったんだぞと言いたいのかと思わせてしまう記述だ。何度も反乱があったようだから、そうではないと思っていた人たちもたくさんいたようだが。
そうした歴史を知ってか、知らずか、Dさんはここには入場しなかった。「沙塔尓」の弟も、赤ん坊を抱えた女性ももちろん車で待つだけ。私とZだけが入場することになった。敷地はそれほど広くない。建物もそれほど広くないので、数分も歩き回ったら終わりだ。イスラム教徒の建物とあって、静謐さが漂っている。ここのメインの塔には登れないのだろうかと見回していたら、あった、あった、登るところが・・・あったけど、登れないことがわかった。なぜなら、塔への入場料が「300RMB/人」だったからだ。敷地への入場料の10倍というハイパー料金である。人を拒絶するようなこの料金の高さはどこからくるのだろう。登る時にいちいちガイドがつくにしても高い。煉瓦が傷みやすいとか?わからない。
11:30、蘇公塔を出て、出発。「沙塔尓」の弟が「そろそろ食事の時間だけどどうする?」と話しを振ってきた。
「いいけど、どこで食べるんだ?」
「次のぶどう園にレストランがあるんだよ」
「ぶどう園のあとは、どこで食べられるんだい」
「あとは・・・ナイな」
(ああ、そこで食べろってことね)
「ぶどう園のレストランなら、食事をするだけで、中に入れるんだ。普通に入ると、60RMB/人もするんだよ」
「ええっ、そんなに」
「高いだろ」
「うん、それなら、レストランで食事をしたほうがいいね。でも高いんじゃないの」
「いや、高くないよ。スイカも葡萄も食べ放題だし」
「ほんと~」
Zが大喜び。果物には目がないのだ。しかし私は違う。果物など食べられる量は知れている。
「で、一番安い料理は何なの」
「拌面かな」
「いくら?」
「10RMB」
「なら、そこにするか」
全員一致(三人だけだけど)で、決定。
しばらく車を走らせていくと、ぶどう園の大門が見えた。
「大門から入ると、60RMB/人なんだよ」と「沙塔尓」の弟が得意げに言って、大門の脇の道路に入っていった。
(脇の道路から入れるのか。レストラン客だけ?)
車はぶどう園の横をずっと走り続けるが、ぶどう園との間には柵が続いていて、中に入れそうな様子はない。奥の方で繋がっているのだろうか。ずいぶん長いこと走った後、車は右手の細い道路に入った。
(おっ、本当にぶどう園に入るのか。てっきり、ぶどう園の横のレストランでぶどうを見ながら食事とかなるのかと思ったが・・・)。
細い道路の両脇はほとんどがオープンレストラン、もしくは土産物屋だった。上部は鉄のパイプと木で格子状に覆われており、それに蔦がからんで、葡萄の実と葉で蓋をしたようになっていた。車がそのうちの一軒の中で駐車すると、30前後の気の強そうな女主人がたたっと迎えに出てきた。「今日は暇だったのよねぇ~。良かった、客が来て」という顔をしている。私たちが席に座るとさっとメニューをテーブルの上に置いた。何を注文するのだろうといった期待で目をきらきら輝かせている女主人の前で具合が悪かったが、私は一番安い「拌面(15元)」を注文した。ZとDさんも同じだった。「沙塔尓」の弟と赤ん坊を抱えた女性はどうするのかなと思っていたら、同じく「拌面」を頼んだ。女主人は一瞬だけ無表情になったが、すぐに笑顔に戻って、厨房の方へ去った。そしてすぐに、スイカと葡萄を一皿ずつ盛って持って戻ってきた。果物が食べ放題というのは嘘ではないようだ。
Zがさっそくスイカを口にして、「美味しーい」と感想をもらした。続いて、私も一口食べる。うん、甘い。それも自然な甘さだ。この甘さと比べると、深センで食べるスイカの甘さは問題がある。あれは、やはり砂糖水を注射した甘さではないのか。新聞では知っていたが、どうやら本当の話っぽい。それぐらい、ここのスイカは美味しかった。おしゃべりをしているうちにスイカも葡萄もみるみるうちになくなった。
Zが「食べ放題よね。もっとこないの?」と要求すると、「沙塔尓」の弟が「お腹いっぱいになったら料理が食べられなくなるよ」と忠告した。Zは「それもそうね」と引き下がったが、いささか不満そうだ。
まあ、麺が数皿で食べ放題では元がとれないというところだろう。
やがて、「拌面」がやってきた。みんないそいそと手をつける。肉も野菜もふんだんに入っていて美味しい。深センの蘭州麺の店でも食べられるが、味は格段に上だ。もっとも、深センのは10RMB以下だったと思うから、値段はかなり割高だ。食事中、「沙塔尓」の弟に「ぶどう園の中に本当に入れるのか?」と尋ねると、あっさり「いや駄目だ」と返事をされた。あまり堂々と答えられたので皆二の句がつげなかった。(私はてっきり自分のヒアリングミスかと思ったほどだ。後にZとDさんに聞いたら、確かに最初に聞いた時はぶどう園に入れると言っていたそうだ)。
Dさんは食事をそうそうに終えると、ちょっとその辺をぶらぶらしてくるわと席を立った。続いて私も席を立つと奥のぶどう園の方へ向かった。数十メートル先にぶどう園の入口があり、確かに無料では入れなさそうだった。まぁ、ぶどう園のために60RMBを出すのはさすがに馬鹿馬鹿しいように思われたので諦めて引き返した。「沙塔尓」の弟はすぐに出発するつもりはないらしく、レストランのオーナー家族とおしゃべりにふけっていた。Dさんも戻ってくる様子がないので、私は「沙塔尓」の弟たちが座っている休憩用の高台(?)の上でごろ寝をすることにした。Zもすぐそばに座って休憩だ。
ブドウの木や蔦が屋根の骨格に覆いをして程よい木洩れ日が差しているので、ぼんやりと時を過ごすには最高の場所だ。もうしばらく長くここにいられたら、深センの工場でコンピュータに囲まれた暮らしなど、全て忘れられてしまいそうだ。(実際にここに放っておかれたら、その日の晩には『インターネットできるところないんですか?』と尋ね出すのだろうけれども)。
いつもだったら「沙塔尓」の弟を急かして早く出ようとするところだが、今日はあまり気持ちがいいのでそのままにしておいたら、彼の方からそろそろ出発しようと促してきた。Zはすでにしびれを来していたらしく、「ほら、起きて○○(私の名前)」と呼んで、手を引っ張って、私を起こしにかかった。「まだDさん、帰ってきてないよ」と言うと、「もう、すぐ来るわ」とうるさい。仕方なく起き上がると、ちょうどDさんが戻ってきたので皆で車に乗り込んだ。赤ん坊を抱いた女性も乗車した。
次の行き先は火焔山だ。これまでの観光地と異なり、市外から随分離れているようで、数十分車を走らせることになった。その間、ずっと緑のない乾いた土が剥きだしの山や平地が続いた。途中、石油基地のような建物が見られたから、ここでも資源の開発を進めているのだろう。途中、何度か窓を開けてみると、むわっと熱風が吹き込んできた。この辺りは市中よりぐっと気温が高いようだ。さすがに火焔山の近くだ。
13:30,火焔山着。本来、「火焔山」はトルファン観光最大の目玉である。なんと言っても、あの西遊記の「火焔山」のモデルとなった山なのだ。夏には50度を超えるという驚異の熱さを誇る火焔山。空気が揺らいで炎が燃えさかっているようにも見えるという。頑として人を寄せつけない荒々しさを備えた山が私の頭の中にイメージされていた。今回の新疆旅行の目的の半分は、この「火焔山」を見るためにあったと言える。
しかし、現実の火焔山は想像していたものといささか違っていた。裸山で、どこからも登れて危険だということもあるのだろうが、ほぼ前面に渡って柵で囲まれてしまっていたのである。(或いは、入場料を稼くためか)。これでは荒々しいどころか、動物園の中のライオンといったところだ。全く迫力なし。「沙塔尓」の弟も、柵の前で車を停めて「これまで連れてきた人たちも、中に入らないでここで見るだけにしているよ」と言い出す有様だ。Dさんも、Zも「私は入らないわ」宣言を出した。ご意見、ごもっともである。山頂に向かって登るのでなければ入場する価値はほとんどない。ラクダがいるようだったが、ラクダ乗りは千仏洞の方が良いとのこと。そうなると、ますます入場する理由が薄くなる。
そうは言っても、「火焔山」。トルファンに再び来るなんてことはまずないだろう。(やっぱり入っとこう)と決めて、皆をおいて入場することにした。入場すると短い通路が続いていて、そこを抜けると展示室やら、土産物やらが円状に並んだ建物に入った。建物の中央は屋根のない広場になっていて、そこに巨大な温度計が設置されている。目盛りをみると、55度だ。体感では40度ぐらいだから、大袈裟な表示がされているように思えた。観光客を喜ばせるための仕掛けだろう(正式な気温の計り方は、直射日光や地表からの照り返しもない風通しの良い場所で行われるということだ)。
この建物を2階に上がると、地表に出た。火焔山が一望に見渡せる(柵の外からでも見渡せるけど)。
(ここが火焔山か)と改めて感動してみる。実際感動する価値があるのだ。「火焔山」は新疆旅行の目玉であるばかりでない。十年以上も前に、中国に来る以前、繰り返し目を通していた「地球の歩き方」にもきっと紹介されていていたに違いなく、いつか行くぞ、いつか行けるかなと何度も考えていた場所に違いないからだ(多分)。つまり、十年来の夢の場所だ。本来なら、汗を流して頂上まで登らなければ行けないところだ。でも、暑いし、ちょっと無理。ラクダに乗って上まで行きたいところだが、このラクダ乗りは料金交渉でモメル率がすごく高いようだから、「沙塔尓」の弟のバックアップがない場所でやるのはリスク高い。やめておくとしよう。周囲を写真に収めて満足することにした。
次は、「高昌故城」だ。午後2:00に到着。ここでもDさんは「私はいいわ」とのことで、私とZのみで入場となった。入口周辺に馬車がたむろっていて、乗れ乗れと盛んに声をかけてくるが馬鹿高いので無視して歩いてぐるりと回ってきた。「交河故城」と違って、ほとんど原型を残しておらず、見る物がなかった。素人目には、これでお金をとっていいのかという感じだ。もっとも、「交河故城」のもほとんど再建したものだろうから、本当に過去の遺物として残っている部分は同じ程度なのかもしれない。こういったところは、残されたわずかな部分から、古代の繁栄をイメージすることができる知識と想像力がなければ楽しめないのだろう。
若干の徒労感に襲われながら、「高昌故城」を出た。入口のすぐ横にある簡単な食事所で、「沙塔尓」の弟とDさんはお茶を飲んで涼んでいた。私たちが来たのを見て、乗車の準備を始める。お店のオーナの子供たちと思われる子たちが数人がいて、そのうちの比較的大きな女の子、多分小学校4,5年生ぐらいの子がこちらに寄ってきて、「どこから来たんですか?」と尋ねてきた。綺麗な標準語だ。Zが、「深センよ」と答えると、「そうですか。是非また来てくださいね」とスカートの両端をつまんでお辞儀をした。唐突だったので、ちょっとびっくり。見たところ、ウィルグル族のようだったから、学校で教わった標準語の練習をしようということだったのかもしれない。
続いて、アスターナ古墳群に向かった。車の中では、Dさんが助手席。後部座席では私と赤ん坊連れの女性がZを挟むような形で座っていた。私と一緒で結構人見知りをするZは、最初は口を聞かないで済ませようとしていたが、赤ん坊を連れた女性との乗り合いが延々と続きそうな気配を感じて、話しかけ始めた。最初に乗り合いになった女性と同様、真っ黒な服に身を包んではいるが、こちらはいかにもウィグル族の
若奥さんという様子だ。赤ん坊の頭が黄褐色に染められており、ずっと気になっていたのだが、話の中でそれが塗り薬だとわかった。今日はお医者さんのところへ連れて行くためにこの車に乗ったのだそうだ。夫はぶどう園の持ち主だと女性が言うと、Zはなんとか干しぶどうの底値を聞き出そうとしたが、女性は「私はビジネスには関わらないからわからないの」の回答を避けた。いくらなんでも干しぶどうの値段が全くわからないということはないだろうから、きっと、そういう話はしないようにと夫からきつく言われているか、伝統的に女性が値段に関わるような話をしないようになっているのだろうと察した。昔の日本のようだなと妙に感心させられた。
2:35、アスターナ古墳群に到着。ここでもDさんは、「入場しない」宣言を出した。「蘇公塔
」、「ぶどう園」、「火焔山」、「高昌故城」に続いて「アスターナ古墳群
」と5連続で素通りだ。徹底している。車内で聞いたところによると、Dさんは深センから敦煌へ列車で到着。そこから観光を始めてトルファンへ着いたらしい。全部で一ヶ月の旅行だそうだ。確かにそれだけ長期の旅行となると、現在の高騰した各地の観光地の入場料を全部払っていたら、とんでもない金額になるだろう。だから、取捨選択をはっきりさせているのだ。一方、私たちは一週間程度の短期旅行。行き帰りの飛行機代のことを考えれば、入場料などは微々たるものだ。逆に、もったいなくて切り捨てができない。そういう意味では短期旅行のほうが予算を惜しまず、あちこちを見て回れるわけだ。どちらにもメリット、デメリットがあるものだ。将来、どこかで時間をとって長期旅行をしてみたいと思っているが、その時は私たちも取捨選択を迫られるのだろうなぁ。
アスターナ古墳群のメインはミイラ。お墓の中に入っていって、ミイラや中の絵画をみるのだ。ところが、Zは怖くて階段を下りていくことが出来ない。普段は強気一辺倒のZだが、こういった迷信的な場所には弱いのだ。仕方ないので、私一人で下りて中をみる。確かにミイラがあるが、本物だろうか。こういったミイラは、本物は大学の研究所とかに運ばれて、元の場所にはレプリカしか置いてないのではないかという疑いが離れない。湖南省の博物館のように大規模な投資がされていれば別だが・・・。
3:05、ベゼクリク千仏洞へ到着。なぜか、ここにも「火焔山」と看板が立っている。まぁ、この辺、どれもこれも「火焔山」のようなものだ。柵に囲まれていない分、外にある山々のほうが「火焔山」らしいとも言える。さて、ここでの最大の楽しみはラクダ乗り。ラクダ乗りは、内モンゴルへ行ったときにやったことがあるが、あの時は、その前日だかに馬乗りをしていて、尻を痛めていたので楽しいどころではなかった。今回は存分に楽しむとしよう。唯一の心配は、悪名高いと言われるここの料金体系だが、今日は運転手が話しをつけておいてくれる
というから問題ないだろう。
「私、やっぱりやめる」と突然尻込みをするZ。「前にも乗ったことがあるだろう」。「私、よす」。「何言ってるんだ、せっかく来たのに」と無理矢理説得し、とにかくラクダの上にZを乗せる。こういうのは二人で楽しんでこそ、思い出になるというものだ。千仏洞のラクダは、内モンゴルの時と違って「お座り」を躾けられていないようで、短い脚立のようなもので背中へ登らされた。若いZはおっかなびっくりながらも、軽やかに瘤の間へと収まったが、すでにしなやかさを失った私の身体はギシギシと音を立てて、ひどい痛みを伴いながらやっとのことで瘤の間へ入り込んだ。出発である。Zのラクダは、若い20才にも満たないぐらいの男が手綱を握り、私の方は30代ぐらいの男が手綱をとった。
「怖~い。やっぱやめる」
砂の坂を上り始めた途端に、小学生のようにわめき立てるZ。
(手綱をひいてもらっているのに、何が怖いのだろう?)と不思議だ。坂を上がるのが怖いのかもしれない。
「もう、乗っちゃったんだから、諦めろよ」となだめていたところ、さらにZの神経を逆なでする出来事が発生した。
「ウォォオー、ウォオォー」
私が乗っていたラクダが物凄い叫び声を上げ始めたのである。
乗ってた私もびっくりだが、Zは一気に恐怖の絶頂に達した。
「ウォー、ウォオー、ウォー」
「きゃあ、もう降りる~」
「ウォー、ウォー、ウォー」
まるで怪獣の叫び声だ。Zをなだめるどころか、私まで恐ろしくなってきた。
手綱を引く男が懸命にラクダを鎮めようとするが、全く言うことを聞かない。
「ウォオ、ウォオオー、ウォオー」
「きゃあ、きゃあ、降りる~」
「おい、おい、マジで怖いよ、これ」
「ウォ、ウォオー」
Zはもう半べそ状態である。私も心の中で(これ、もう降りたほうがいいんじゃねぇの?馬みたいに後ろ足で立ち上がったりしたら、一貫の終わりだぞ)とかなりドキドキの状態になっていた。
「本当に大丈夫か?」と男に尋ねるが、こっちのいうことに耳を貸す様子はなく、ラクダに向かって怒鳴りつけるのみ。
やがて吠え疲れたのか、ラクダは突然静かになった。Zも叫び疲れ、「私もうヘトヘト」という顔をしてラクダの上でぐったりと座り込んでいる。
ラクダの顔を見ると、口の中が噛みしだかれた、溶けたような草でいっぱいになっている。どうやら、食事の途中だったようだ。それで怒っていたのか。口の中で草が溶けているのは、なんだ?牛みたいに食べ物を胃袋と口の中で行ったり来たりさせるのか。反芻だっけ。(インターネットで調べたところ、ラクダも牛と同様反芻をするそうです。草喰って、ゆっくり反芻しながら休んでいたところを呼び出されて怒ってたのである。きっと)。
大騒ぎをしたことでリラックスしたのだろう。手綱を引く男たちと会話が始まった。私の方には、どこから来ただの、そっちの天気はどうだのと聞いてきたので適当に答えた。Zの方には体重の質問が飛び、Zが答えると、「太っているな」との一言が返ってきた。「えっ、え~!」。大ショックを受けたZ。「私、○○キロよ。○○キロ」。相手が聞き間違えたと思ったらしい。しかし、相手は朴訥な様子で、「太ってるね」と答えるのみだ。「ふっ、太ってないでしょ」。動揺して半分どもってる。恐らく、こっちの女の人たちは、生活が厳しくてそんなに太っている余裕がないのだろう。でも、今日、車で一緒になった女性たちはそんなに痩せている感じでもなかったけどなぁ。彼女たちは富裕層に当たるのだろうか。そんな会話を通じて、思っていたより普通語が通じるなと一安心した。これならトラブルになることもないだろう。
長い坂を上り平坦な地へ出たところで、男の一人がポロライド・カメラを取り出した。「とるぞ」と合図をしてくる。即座にZが「いらない」と返事をした。「とろうよ」としつこい。「いらない」。ひたすらこの繰り返し。私たちが、同意するまで一歩も動かない構えだ。ラクダの背は高く、一人で降りるわけにもいかない。仮に飛び降りることができたとしても、私の今の足の状態ではその衝撃は想像するだけで恐ろしい。いつまでもこうしていても、埒があかないと思い始め、「いくらだ」と尋ねると、「30元」と答えた。「一枚がか?」。「そうだ」。堂々とぼったくり値段を公言してきた。「高すぎる」と交渉を始めて、結局、一枚15元で交渉終了。デジカメがあるのに、本当に無駄金だ。それでも、Zと二人でラクダを並べてパシャリと一枚とって貰った。「もっととるか」の誘いを、「いらない、いらない」と大きく手を振って拒否すると、男たちががっくりした様子を見せた。
それでは出発だ。となったところで、私のラクダを引いていた男が、遠くの山を指して「あっちへ行く」かと尋ねてきた。うーん、そりゃ、行ってみたい気はするけど、運転手が決めてくれた料金は「50RMB」だった。
「あっちまでいくと追加のお金がいるのか」
「もちろん、いる」
「いくら?」
「100RMB」
「じゃ、やめた」
再びがっかりする男たち。こんどはZに向かって、「どっちから帰る?」と話し始めた。
「遠回りの平らな道か?もと来た道か?」
「平らな道!」
上り坂がよほど怖かったのだろう。即答をするZ。よしきたとばかりにラクダを歩かせ始める男たち。
「待て。料金は同じなんだろうな」と私が口を挟む。
「もちろん、違う」
「どっちが高いんだ」
不思議なことにここから突然、標準語が通じにくくなった。まぁ、不思議でもなんでもなくわざとやっているのだ。
あーだ、こーだと言って、ひたすらラクダを先に進める。頼みのZも、料金が高くなることは断固拒否の姿勢だが、一方、もと来た道を辿って戻るのは怖いらしく、相手を攻めきれない。結局、
不明瞭な会話を続けてわかったのは、このまま遠回りのなだらかな道を行けばさらに100RMB追加とのこと。だったら、もとの道へ戻れというと、もうここまで来てしまったのだから、それでも50RMB追加だという。完全に相手にペースだ。ウルムチでの馬乗りやラクダ乗りの値段交渉は難しいとの事前情報はあったが、ここまで悪質だとは思わなかった。こういった強行な交渉を突きつけられてしまうと、柔らかな対応を好む私としては打つ手がない。
「じゃあ、25RMBの追加だ。これで、駄目なら、俺たちはここから歩いていく。もちろん、お金は50RMBしか払わない」と宣言した。
「駄目だ。もうここまで来たんだから!」
と若い男は同意しない。しかし、年上の男の方はもう引き時とみたらしく、若い男を押さえて25RMBの追加案で了承した。
一応、合意に達したので、残りの道は穏やかな雰囲気で過ごすことができた。Zは納得がいかないらしく、「たいして距離も変わらないのに何で料金が違うのよ」としくこく言い続けたが、「もう話が決まったんだから、それ以上言うな」と告げて黙ってもらった。ここでこれ以上言っても、相手の立場が強くて話にならないからだ。
遠回りの道をゆるゆると歩いて、スタート地点に到着。ラクダを降りると、さっそく男たちがお金を寄越せと言ってきた。払わなければならないのは、当初の金額50RMBX2と写真代15RMBと追加分25RMBX2で165RMB。しかーし、こんなアコギな手を使う奴に簡単に思うとおりにはさせられない。
「料金の話をしたのは運転手だから、運転手経由で払う」と言い捨てて、運転手(「沙塔尓」の弟)のほうへ歩いていった。男たちは、運転手との直接対面はあまり気が進まないらしく、10メートルほど距離をおいてとぼとぼついてくる。私たちが向かってくるのに気づいた運転手がこちらに来て、「どうだった」と言ってきたので、「あいつら、50RMBじゃ足りないとかなんとか言っているけど、何言ってるか聞き取れないよ」と告げてバトンタッチ。運転手は落ち着いた物腰で二人の男と話しを始めた。
少し離れて見ていると、男たち二人は身振り手振りで一生懸命抗議をしている。だが、運転手の方が明らかに立場が強いようだ。私たちへの乱暴な物言いと違っていかにも腰がひけた様子だった。しばらくして、運転手がやってきて、私たちの言い分を聞き、結局最初の50RMBX2と写真代15RMBで合計115RMBの支払いをすることになった。若い男の方は納得がいかないらしく、物凄い目つきでこちらを睨みつけている。別の場所でかちあったりしたくないものだと思った。私たちが払ったお金の大部分はショバ代としてさっ引かれ、彼らの懐に入るのはほんのわずかのようだから、取れるところからとろうという気持ちは理解できるが、こちらもやられっぱなしというわけにはいかない。しかし、新疆の人たちは気が荒い。こういったトラブルにならないように、細心の注意を払わなければならないと自分を戒めた。
続いて、ベゼクリク千仏洞窟へ入場(20RMB/人)。ラクダに乗る前、運転手は千仏洞もラクダに乗ったまま見られると言っていたような気がするが、それはあくまで上から眺められるということだったようだ。もっとも、そもそも千仏洞が上から眺められるようなところまで行くことができなかったから、だいぶ話が違ったことになる。しかし、さっきの料金交渉で助けられたから、良しとしよう。だいたい、一緒について来るでもしない限り、ラクダの歩くコースを交渉するのは無理っぽい。なにしろ、砂の山の上には目印らしい目印がないのだから。(或いは、「沙塔尓」の弟でなく、「沙塔尓」自身だったらラクダのコースもよく知っていて、細かい交渉をしてくれたのかもしれない)。
Dさんは、ここでも入場をしなかったので、私とZだけで、千仏洞へ向かっていった。敷地はそれほど広くなく、山の壁面に掘られた十数個の洞窟の中を見て回るだけだ。洞窟の中に壁画があるのだが、大半は失われてしまっており、見るべきものはほとんど残っていない。むしろ、山に沿って掘られた洞窟群全体が観光の対象といったところだった。洞窟をのんびり見て回っていると、一緒に車に乗ってきた赤ん坊連れの女性がなぜだか現れた。山の崖際で気持ちよい風が吹いていることから、赤ん坊を涼ませにきたのだろうか。ウィグル族の民族衣装を身につけた様子は、ここの風景によく馴染んでいた。一生をこういう土地で暮らすのは一体どんな気持ちがするのだろうかと改めて不思議に思った。
「ベゼクリク千仏洞」を出て車に乗り、「吐峪溝」へ向かった。「ベゼクリク千仏洞」までは一日ツアーで行け、残る「吐峪溝
」と「砂漠」が二日ツアーでないと行けない部分である。今日の晩、「砂漠」のパオで泊まって満天の星空を見て、次の日はホテルへ一直線という予定だった。「ベゼクリク千仏洞窟」から「吐峪溝
」までは相当距離があり、長く車で走った。風がひどく強くなってきて、雨こそないものの、砂嵐模様となってきて車の窓を開けていられないほどになった。
「今日はすごい風だ。砂漠にいったら、体中砂だらけになっちゃうな」とぽつり呟く「沙塔尓」の弟。
「ええっ!」
即座に反応する女性二人。
「この風じゃ、ご飯まで砂だらけになっちゃうよ」
「それじゃあ、星も見れないのか」
私が尋ねると、「そうだなぁ」と返事をした。「沙塔尓」の弟も、あまり行きたくなさそうな様子である。もっとも、「沙塔尓」の弟は、昨晩遠くから帰ってきて早朝の3時にトルファンに着いたばかりだというから、数時間しか寝てないのだろう。パオなどではなく、家に帰ってゆっくり休みたいという気持ちがもともと強いはずだ。恐らくこういった地方では家族内の上下関係も厳しいだろうし、兄のビジネスのおこぼれで食っていることから、「沙塔尓」の言うことには真っ向から逆らうことはだろうけれども、今日は砂漠などに行きたくないというのが本音だろう。或いは、それもあってわざわざこんな話をし出したのかもしれない。
「沙塔尓」の弟が何を意図しているかはともかく、風が強いのは現実である。砂嵐の中、電気もないパオの中で一晩過ごすのは真っ平だ。
「じゃあ、砂漠行きのキャンセルはできないのか?俺たち、今日はもう疲れちゃったし、次の『吐峪溝』が見れれば、十分だよ」
私はZとDさんの様子を見ながらそう言った。二人とも同意見のようで、頷いている。
「沙塔尓」の弟がシメタ!と思ったかどうかはわからないが、「そーか、それなら後で兄に聞いてみるよ」と答えた。
4:25、「吐峪溝」が上部から見渡せる場所で、「沙塔尓」の弟が車を止めた。「兄がここで貴方たちを下ろして景色をみてもらえと電話で知らせてきたんだ」とのこと。さすがサービス精神旺盛な「沙塔尓」だ。「沙塔尓」の弟によると、この上からの景色をみるためには、遠回りのルートを走ってこなければならないらしい。
わざわざ手配してくれただけあって、素晴らしい景色だ。荒地の中にあるわずかな緑を頼りに切り開かれた村といった、人間の生命力を感じさせてくれるような風景だった。(インターネットで調べたところによると、2500年ぐらい前に、すでにここでは農業が営まれていたらしい。また仏教とイスラム教の聖地でもあった時代もあったようだ)。
4:40、「吐峪溝」に到着。入場料を支払って中に入る。私たちに代わって入場券を購入した「沙塔尓」の弟から、見学に当たっての注意事項が下された。村人に直接カメラを向けて写真を撮らないこと。ここの人は迷信深いかららしい。また、村の奥にある千仏洞は危険(崖崩れ?)だから、そちらへは行かないこと。(この時は、まあ、洞窟には興味がないしと思っていたが、ここの千仏洞は見学価値が高く、是非とも見ておくべきだったようだ)。
Dさんは「私先に行くわ!」と言って、車を出て行った。私たちが村の中へ入った時にはDさんの姿はすでに見えなくなっていた。この村は人口が少ないのか、皆部屋にこもりきりなのかはわからないが、ほとんど人の姿が見られなかった。時折、遠くからこちらを見つめる老人がいるぐらいである。子供たちの姿も稀にあったが、近くへ寄ってくる様子はなかった。建物のほとんどは土で出来ており、今日観光してきた二つの故城と同様長い歴史がありそうだった。レンガで作られている部分もあり、これらは恐らく歴史が新しい部分だと思われた。と言っても、数百年単位かもしれないが。
怪しげな土造りの家々の間をうろうろするのに疲れ始めた頃、
私たち同様ここに観光に来ているらしき親子連れに会った。話を聞いてみると、たった今奥にある千仏洞の方から戻ってきたらしい。風が強くて最後まではいけなかったのだという。「でも、入場口で千仏洞の方には行ってはダメだって言われなかった?」と尋ねると、「誰に?」と答えが返ってきた。
「誰にって、入口で言われなかった?」
「入口には誰もいなかったよ」
「えっ、だったら入場料はどうやって払ったの」
「入場料なんて払わなかったよ。いるの?入場料」
「・・・・」
親子たちと別れ、姿が見えなくなるとさっそくZと入場料の話になった。
「入場料払わなくても入ってこれるのかぁ」
「あの人たち、自分の車で来たらしいから、それでお金取られなかったのよ」
「そうかなぁ」
入場料の謎はわからず終い。あるいは、外に出るときにつかまって、払えといわれるのかもしれない。
歩いていくうちに、前方にDさんの姿が見えた。デジカメを手にして困った様子である。
「どうしたんですか?」
話を聞くと、デジカメが故障してしまったとのこと。なんとかしてやれるかと思って手に取ったが、画面が紫色になってしまっていてどうにもならない。
「困ったわ」とDさん。
確かに困るだろう。私も、デジカメが旅行中に壊れてひどく失望させられた経験がある(確か初代のデジカメ)。日本にいた時も中国に来てからも、アナログのカメラの頃は、そんなに写真をとることに関心はなく、思い出を写真に残すなんて馬鹿らしいぐらいに思っていたのに、(中国で)デジカメを使い始めてから急激に心境に変化をきたし、今ではデジカメなしの旅行は考えられなくなっている。だから、Dさんの気持ちは痛いほどわかった。しかし、Dさんのデジカメは相当古い機種でどうみても5年ぐらい昔のものである。寿命であるとしかいいようがない。残念ですねと同情の気持ちを伝えることしかできなかった。
「もう、車に戻りますか」
「うーん、本当はあっちへ行ってみたいんだけど、いいのかしら?」
Dさんの指さす方向をみると、トンネルのようになった入口があり、その向こうに建物が見えた。確かに、トンネルを境にして私有地になっているように見えるし、入りにくい感じだ。私も一人だったら、トンネルを抜けていくのは躊躇われたことだろう。そんなに興味があったわけではなかったが、デジカメが壊れて傷心のDさんを励ます意味で一緒に中に入ってみることにした。
トンネルに続く細い通路抜けていくと、奥に大きな樹があり、そばで子供数人がキャッキャッと騒いで遊んでいた。すぐ先に中庭
があり、干しブドウが敷かれたゴザいっぱいに広げられていた。私たちがブドウを眺めていると、子供たちが知らせたのだろう。彼らのお父さんらしき男がやってきた。
「見させてもらっていい?」
「もちろん良いよ」
Zが尋ねると、男は人の良さそうな笑顔をみせて許可をくれた。
「きみたちどこから来たの?」
「深セン」
「へえぇ、俺も広東省に行ったことあるんだよ」
男は、自分が若い頃、知り合いのツテを頼って広州へ働きに出たこと、広州駅は恐ろしく人が多かったこと、土地の風土になじめず10日ほどで帰ってきたことなどを懐かしそうに語った。男がそうした話しをしている間に、いつの間にか奥さんも外に出てきていた。
夫の話が一段落するのを見計らって、抜け目なく「干しぶどう」を勧め始める。「倉の中見せてくれる?」。「いいわよ、入って、入って」。Zが早速食いついた。
さっそく庭に建っている干しぶどうの倉へと入っていこうとする。「やめとけよ」と小さな声で注意してみたが、全く耳に入らない。「買わなきゃならなくなるぞ」と言っても、「そんなことないわよ」と
取り合ってくれず、倉へと入っていった。すぐに「たくさんあるわ~」とZが上げる喜びの声が聞こえた。
実は、昨日トルファンの市場で、すでに一キロの干しぶどうを買っているのだ。一キロの干しぶどうと言えば、物凄い量だ。まぁ、値段はたいしたことないが、まだ旅行の途中だというのに、さらに荷物を増やす気なのだろうか。
「500g買うことにしたわ」。倉から出てくると、案の定、購入を宣言したZ。私の冷たい視線を受けて、昨日買った分のことを思い出したらしく、「ほら、倉の中まで見せてもらったらし、すこしぐらい買わないとね。それに安いし」と言い訳をする。確かに今更買わないとは言いにくいだろう。仕方なく同意をした。Zはほくほく顔で干しぶどうを袋に詰めて貰った。
入口まで戻る途中、私とZとDさんで相談をした。
「どうしますか、砂漠まで行きますか?」
「私はどっちでもいいわ。もう疲れちゃったし」
そういうことなら、話が早い。問題は砂漠に行かない分、どこまで値切れるかだ。三人で落としどころを決めて入口まで戻ると、「沙塔尓」の弟が地元の人たちとトランプをやりながら談笑をしていた。私たちの姿を見ると立ち上がって、「見終わったのか」と声をかけてきた。
「うん、あの件、沙塔尓に話してくれた?」
「何の件?」
「ほら、砂漠に行くのはやめる件」
「話してないよ」
「じゃあ、話してくれよ。僕ら三人とも、もう疲れちゃったからさ」
「俺は駄目だよ。貴方たちが自分で話してくれないか」
いくら行きたくないからとは言え、自分の口から商売を減らすようなことは言い出せないのだろう。これは無理強いしても駄目だと思い、「沙塔尓」の電話番号を教えてもらうにとどめた。
問題は誰が交渉の電話をするかだ。男の私がと言いたいが、私の中国語ではとても「沙塔尓」に太刀打ちできそうもない。幸い、Dさんも外国人である私には期待をしていなかったらしく、年下のZよりはと、自ら交渉役を引き受けてくれた。一見大人しそうに見えても、女一人旅をする豪傑である。こういうの苦手なのよねという顔をしながらも、私が繋いだ「沙塔尓」への電話を受け取り、交渉を始めた。最初はキャンセルを渋る「沙塔尓」を説得し、なんとか料金交渉に持ち込んだDさん。引き続き、長いやり取りをして、最終的に数十元の減額を成し遂げた。私の方をみて、(もう無理)という顔をしてみせたので私も同意を示した。
ところが、Dさんが返そうとした私の携帯電話を、Zが横からもぎ取った。
「私がやるわ!」
突然の参入に「沙塔尓」もびっくりしたことだろう。最初は値切りは私の仕事ではないという顔をしていたのに、このエネルギーは一体どこからやってきたのだろうかという勢いで、Zが交渉を始めた。Dさんの押し引きの入った値引き交渉と異なり、Zのは直線的だ。
まからないとこの電話は終わらないわよ!という強引な進め方で、さらに数十元の値引きを成し遂げたZは、勝ったわ、と意気揚々とした表情で電話を終えた。少しでも安くなったのは金額的にはともかく気分的に嬉しい。素直にZの健闘を讃えた。
本来二日のツアーをこちらの都合で勝手にキャンセルするのだから、一銭もまからなくてもおかしくないところ。それが半額ぐらいになったのだからありがたい。予定よりも早く家に帰れることになった「沙塔尓」の弟も嬉しいらしく、皆がにこやかに車に乗り込んだ。
赤ん坊連れの女性も同様に車に乗った。発車してから聞いてみると、医者がいたのはこの村だったとのこと。すでに病気をみてもらったらしい。トルファンの街中の医者よりも、さっきの村にいる医者の方がいいっていうの?驚いて尋ねたが、女性は真面目な顔でこくりと頷いただけだった。普通に考えると、ありえないような気がするが、わざわざ赤ん坊を連れてきているのだから、事実なんだろう。一子相伝で、村の中でずっと伝えられる医療技術だったりするのだろうか。
以前に、貴州省の大学に語学留学していたころ、同じく中国語を勉強しにきていた日本人がアトピーだった。彼は学校から数時間ぐらいかかるところにある漢方医のところに通っていたのだが、そこへ通っていた頃は彼のアトピーはぴたりと治まっていた(食事療法も含む)。ところが、その漢方医がある時、突然亡くなった。漢方医の調合は一子相伝で、跡継ぎがいなかったため誰もその調合を知らず、その後彼はあちこちの漢方医のところを回ったが、(少なくとも貴州大学にいた間は)最初の漢方医のように効き目の目覚ましい漢方薬を調合してくれる医者には出会うことができなかった。
ウィグル族の医者だから、漢方薬ということはないかもしれないが、きっと何らかの薬草を調合したものなのだろう。あるいは、あの村でだけとれる草なり鉱物なりがあって、それを薬の主たる原料としているため、村を離れられないのかもしれない。
6:50,トルファンの街中に到着。まだ日が明るい。昼間のようだ。一日が長くなったようで、なんだか得した気分だ。本日出発してきた「交通賓館」の前で下車をして、荷物をトランクから出した。荷物を運んでロビーにはいると、Dさんはすでにチェックインにとりかかっていた。「沙塔尓」がいたのでツアー代の支払いをし、私たちも、チェックインをしようとした。しかし、部屋はすでにいっぱいになっており、フロントのスタッフは手を振って断りの合図を示すだけだった。Dさんに向かって、よくチェックインできたねと感心してみせると、「空いてた最後の部屋だったのよ。昨日はシングルで安かったんだけど、今日はツインしか空いてなくて120RMBだったわ」と答えた。残念、一緒に下車したというのに、ほんの少しの差で泊まり損ねたというわけだ。一人旅で鍛えられてきたDさんのハングリーさに負けたということか。
私たちが、がっかりした表情で立っていると、「沙塔尓」が声をかけてきた。部屋を取り損ねたことを言うと、「俺に任せておけ」と大見得を切った。「本当か?」と疑念を投げかけたが、自信満々でついて来いとのこと。半信半疑だったが、何しろ、私の脚がまだ万全ではない。素直に「沙塔尓」に従うことにした。ホテルの外に出ると、「ほら、良い天気だろ。砂漠に行っていたら、きっと満天の星空を見ることができたぞ」と私たちの後悔を誘うようなことを言う。確かにその通りだったかもしれない。でも、今日はもう疲れていてそれどころではない。続けて、「前に来た日本人も、砂漠で星空をみて、『まるでこの星々は私たちのためだけに存在しているかのようですね』なんて言ってた。すごくロマンチックなんだぞ」と話す。
いつまでもしゃべらせておくのもしゃくなので、私は「ホテル、遠くないんだろうな?」と聞いて話を中断させた。「沙塔尓」は「すぐそこだ」と隣のホテルを指さした。(そりゃ、ずいぶんと近い。というか安易過ぎないか?)と心配になったが、「沙塔尓」は迷うことなく真っ直ぐ進み、ホテルに入った。すぐにフロントのカウンターにとりつき、スタッフと話し出す。スタッフも「沙塔尓」を知っているようで、うんうんと愛想良く頷いている。
「空いているってよ」とこちらを向いたので、すかさず「いくら?」と料金を聞いた。「160RMB」。すぐに返事が返ってきた。昨日の「交通賓館」より40RMB高い。私たちが迷っていると、「沙塔尓」は胸を叩いて「俺を信じろ」とのこと。「少し高いけど、部屋がずっと綺麗だよ」とアピールする。まぁ、ここまで言うのだから信じるとしよう。そう決めて、部屋の下見はせずにチェックイン。下見をしている間に他の客にとられてしまっては困るとの心理も働いていた。「沙塔尓」に感謝を示して、ロビーでお別れ。
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【東方賓館】 |
「東方賓館」の部屋は、リフォームされており、「交通賓館」よりもずっと綺麗だった。40RMB高いだけのことはある。思わず、「沙塔尓」ありがとうとつぶやいた。しかし、難点もあった。「交通賓館」はシャワーへの給湯が24時間だったが、「東方賓館」では20:00にならないと給湯がされなかったのだ。すぐにシャワーを浴びたい気分だったので、いささか失望させられた。疲れていたので外に出て時間つぶしをするわけにもいかない。カバーのかかったベッドの上にごろりと横になり、テレビを見ながら給湯の始まる時間を待った。
20:00になり、Zと順番にシャワーを浴びて今日の汗を流し終わるとすでに21:00近くになっていた。
昨日は、バス・ステーションとホテルがあるこの辺りが街の中心だと思っていたが、もう一箇所人が集まる食事所のような場所があることが今日の車内の会話でわかっていた。ホテルから来るまで5分ほどの場所に大きな広場があり、毎晩夜店市が開かれているのだという。夜店と聞いては行かずにいられない。夕食はそこで食べようとZと話して決めていた。
Zがすでにハングリーモードに入っていたので、バスではなく、タクシーで出発。聞いていた通り5分で着いた(5RMB)。真っ暗な中、広場にたくさんの夜店が出ていた。しかし、バス・ステーション前の夜店群よりも規模は大きいものの、出している料理の種類は全く代わり映えしなかった。Zから聞いていたウルムチのような多種多様な夜店街を期待していた私はいささかがっかりさせられた。
特別、目新しいものがないなら、夜店で食べる必要もない。この辺りはレストラン街にもなっているらしく、食事ができる店がたくさん開いていた。そのうちの人気がありそうな一軒を選んで、夕食にすることにした。
二人とも種類の異なった「攪面」を注文した。Zはその上、「大盤鶏」も注文。もの凄い量なので二人で食べきれるはずがないのだが、私の反対を押し切って注文してしまった。「攪面」は安くて美味しかったが、「大盤鶏」は私が好きでなかったこともあって、大半が残ってしまった。食べ物を残すのはあまり好きでないのだが、土地の料理を食べてみたいというZの気持ちもわかるので、仕方がないかというところ。Zと一緒に旅行をするようになって、一人の旅行では食べられない土地土地の料理をたくさん食べられるようになったが、もともと大人数向けで量が多い料理が多い中国では、二人でも少なくて、食べられる料理が限られてしまう。そこが少人数旅行の辛いところだ。もっとも、人数が多ければ行きたいところにいけないことも出てくるわけで、そうなっては(私にとっては)本末転倒である。やはり今のままが居心地がよい。
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【夕食】 |
10:20、ホテルへ戻った。今になって、砂漠へ行かなかったことが少しばかり惜しく感じられてきた。内モンゴルへ行ったときも、結局、シャワーを浴びれないのが嫌でパオでの一泊を諦めてしまった。シャワーは浴びれないし、テレビもないし、トイレも・・・という具合だ。同じ考えでいくと、どこへいっても、パオで一泊はできないことになる。次に機会がある時は、ある程度割り切って泊まることだけを目的とするとしよう。でないと、永遠にパオでの宿泊は実現できないことだろう。 |